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■龍馬が目指した蝦夷地開拓
坂本龍馬の蝦夷地(北海道)開拓への最初の取組みは、元治元年(1864)6月初旬のことである。京都・摂津の浪人を幕艦「黒龍丸」に乗せて蝦夷地を目指す計画を立てていたが、龍馬に蝦夷地開拓の話をしていたといわれる北添佶磨(きたぞえ・きつま)や、神戸海軍操練所の塾生であった望月亀弥太(もちづき・かめやた)が池田屋事件に含まれていたことから、師である勝海舟に迷惑がかかると判断した龍馬はこれを断念したとされる。その直後、 残念ながら龍馬の予想通り、勝は江戸召還となり、操練所も閉鎖となった。 やがて亀山社中創設後に薩摩藩・小松帯刀の尽力で洋帆船「ワイルウェフ号」を購入し、この船での蝦夷地行きを計画したが、慶応2年(1866)5月2日、同船が暴風雨によって五島塩屋崎で沈没。その上、社中のメンバー12人も遭難死してしまう。 海援隊創設後、大洲藩から借りた「いろは丸」での試みは、この船が慶応3年(1867)4月23日、紀州藩船「明光丸」に衝突されて沈没してしまい叶わなかった。 最後は薩摩藩の保証で購入した洋型帆船「大極丸」での試みであったが、この船は支払いの問題から運航不能となってしまい、その後間もなく龍馬は北海道開拓の宿願を果たせぬまま、中岡慎太郎と共に京都・近江屋で暗殺されてしまう。さぞ無念であったことであろう。 慶応3年2月14日、鳥取藩士・河田左久馬宛ての手紙には、 「何卒、今一度御面会仕候時ハ、よほどおもしろき事、御耳に入候と相楽ミ申候。其儀ハ彼の先年御同様、北門の方へ手初致し候事お、又、思ひ出たり。此度ハ既に北行の船も借受申候」 と記され、北海道開拓計画に同志・河田を誘おうとする意図が見られる。また、そのために既に借り受けた船というのは、大洲藩船「いろは丸」であろう。 慶応3年11月10日、死の直前に林謙三宛てに書かれた手紙には、「されば此大極丸の一条ヘチャモクレ」、「私シ汗顔の次第なり」などと、北海道開拓計画のために準備するはずだった大極丸の購入に失敗し、汗顔の次第であると記している。 龍馬は死の直前に至るまで、北海道開拓への情熱を失うことはなく、それはまさに宿願といえるものであった。

■北海道に渡った坂本家
龍馬が目指した蝦夷地開拓への想いは、彼と共に亀山社中や海援隊で活躍し、後に龍馬の跡目を継いだ甥の坂本直(高松太郎)から、坂本直寛へと引き継がれていった。 坂本直は龍馬亡き後、蝦夷地経営に関する建白書を明治新政府に提出。慶応4年(1868)に五稜郭に置かれた箱館(現函館)裁判所(当時の北海道における地方行政機関。現在の司法機関とは異なる)において権判事(ごんのはんじ)となり、新政府軍の一員として箱館戦争にも従軍している。また、龍馬の再従兄弟(またいとこ)にあたる澤辺琢磨も箱館に渡っている。
坂本直寛は、同志と共に北光社(合資会社)を設立して北見の開拓に着手し、明治31年(1898)には一家と共に浦臼へ移住。以後、開拓と伝道にその生涯を捧げた。 菓子メーカーの包装紙の絵などで知られる山岳画家・坂本直行は坂本家8代目にあたり、龍馬が新天地として夢見た北海道の自然をこよなく愛し、生涯にわたって描き続けた。龍馬が目指した未来は北海道という新天地に向かい、その想いは後裔の人々を通じて今もこの地に生き続けているのである。

■龍馬の志を継いだ人々 ①坂本直(さかもと・なお)
①坂本直(さかもと・なお)(旧名・高松太郎)は、天保13年(1842)11月、土佐郷士・高松順蔵の長男として生まれた。母は龍馬の長姉・千鶴(ちづ)であり、龍馬の甥にあたる。
甥とはいえ7歳しか違わなかったため、龍馬は弟のように感じていたことだろう。 文久元年(1861)9月、土佐勤王党に加盟して尊皇攘夷運動に奔走していたが、文久3年1月、叔父の龍馬に誘われて勝海舟の門下生となり、海軍術を学んだ。以後龍馬と共に行動して亀山社中や海援隊の中心人物の1人として活躍。龍馬の指令により、蝦夷地開拓に向けての調査を行ったり、薩摩藩保護のもとで入手した大極丸の代価借用のための交渉などにあたった。
慶応3年(1867)に小野淳輔(おの・じゅんすけ)と改名、維新後は新政府に出仕し、かつて龍馬と共に蝦夷地開拓に向けて行動していたこともあり、翌慶応4年には蝦夷地経営に関する建白書を新政府に提出、五稜郭に置かれた箱館(現函館)裁判所(後の箱館府)権判事となった。 ところが、慶応が明治と改元されたこの年の10月、思わぬ事態が起こる。榎本武揚率いる旧幕府軍が五稜郭を占領、箱館府は激戦の末青森に逃れる。
しかし、翌明治2年(1869)4月、青森に集結した新政府軍は反撃を開始。約1ヶ月の戦いの末、5月18日に榎本らは降伏し、この箱館戦争と共に旧幕府軍は終焉を迎えるのである。 新政府軍の一員としてこの戦いに加わった直は、その戦功により松前候より褒章を受けた。その後、新政府は開拓使を設置して蝦夷地を北海道と改め、本格的な開拓に乗り出した。直も再度箱館府に勤務するが、何の理由からかこの年の12月免職となる。 明治4年、朝廷の命により坂本龍馬の跡目を相続し、坂本直と改名。以後、東京府典事、宮内省雑掌、舎人などを歴任するが、明治22年、キリスト教信奉を理由に宮内省を免職となり、やがて高知に戻って弟・直寛の宅に同居した。父・順蔵や龍馬と同様に、直も役人向きではなかったのかもしれない。
その後の直は、不遇な晩年を送りながらも、高知教会の熱心な信者であったという。
明治31年11月、直は郷里・高知で病没し、翌年妻の留が息子・直衛を連れて北海道・浦臼に移住した実弟・坂本直寛のもとに身を寄せており、2人の墓は今も浦臼にある。

■龍馬の志を継いだ人々 ②澤辺琢磨(さわべ・たくま)
澤辺琢磨(旧名・山本数馬)は、天保6年(1835)1月生まれで、龍馬と武市瑞山の縁戚にあたる(龍馬の父親が琢磨の祖父と兄弟)。龍馬と琢磨は同い歳で、幼い頃は兄弟のように仲が良かったといわれている。 江戸・士学館道場で剣術修行中の安政(あんせい)4年(1857)8月、琢磨は仲間と共に酒に酔ってトラブルを起こし、不名誉な事件のため切腹させられる恐れもあったところを龍馬と武市の計らいで逃亡した。その後、近代郵政事業や電話交換事業の創設者となった前島密(1円切手の肖像に描かれている人物)と共に箱館に渡り、ある日、船宿に押し入った強盗を撃退したことから剣術の腕を見込まれて剣術 道場の師範に迎えられ、箱館の名士たちとも親しくなっていった。 やがて同地の神明社(現山上大神宮)に婿入りして澤辺姓と神職を継ぐ。 その後、ロシア正教布教のため箱館に滞在していた青年司祭ニコライの信念に満ちた教義に心を動かされ、慶応4年(1868)閏4月、日本人として初めて洗礼を受け、晩年は東京・神田駿河台のニコライ堂建立にも尽力し、長司祭(ちょうしさい)にも叙任された。 琢磨には、後に同志社大学の創始者となる新島襄(にいじま・じょう)との友情に満ちたエピソードが残っている。
新島は、天保14年(1843)、上州(じょうしゅう)(群馬県)安中(あんなか)藩士の長男に生まれた。国防と新国家建設に向けての識見を深めたいと密航を計画していた新島は、元治(げんじ)元年(1864)5月、友人の紹介によって箱館のロシア領事館で琢磨と出逢い、そのことについて相談を持ちかけた。 聡明な22歳の新島青年に、琢磨はひと目逢うなり脱国に手を貸そうと決心し、当時箱館に根を下ろしていたイギリス人経営のポーター商会の支配人・福士成豊(ふくし・なりとよ)に協力を求め、無事渡航は成功する。新島は、死罪を犯してまで(当時は密航に手を貸した者も死罪)協力してくれた澤辺と福士の恩を決して忘れることはなかったという。
上海経由で渡米した新島は、明治7年(1874)帰国し、翌年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立、福沢諭吉らと並んで明治の6大教育家の1人に数えられ た。ちなみに、琢磨については司馬遼太郎氏の『街道をゆく-北海道の諸道』(朝日文芸文庫)の中でも紹介されている。 直が箱館に渡ったちょうどその頃、琢磨は入れ違いで東北地方に渡っており、残念ながら2人が出逢う機会はなかったようであるが、明治維新という近代日本の黎明期(れいめいき)に、龍馬の縁戚にあたる2人が箱館で活躍したことには深い因縁(いんねん)といったものが感じられる。龍馬の北海道開拓にかけた想いが、彼らを彼の地にいざなったと思われるのである。

■龍馬の志を継いだ人々 ③坂本直寛(さかもと・なおひろ)
坂本直寛は郷士(ごうし)坂本家(本家)5代目にあたる人物であり、彼によって坂本家は一家共々高知県から北海道に移住した。龍馬の宿願であった北海道開拓は、龍馬の跡目を継いだ兄・坂本直から直寛に引き継がれていった。 直寛はかつて才谷梅次郎(さいたに・うめじろう)のペンネームで自由民権思想の論説を発表していた時期がある。これは叔父・龍馬が使っていた才谷梅太郎の変名に因んだものと思われ、龍馬の思想を継承しようという意志の表れでもあったろう。直寛は平和革命路線の政治活動を経て、やがて北海道開拓とキリスト教伝道に生涯を捧げた。 坂本直寛は嘉永(かえい)6年(1853)10月5日生まれで、高松順蔵(たかまつ・じゅんぞう)と龍馬の長姉・千鶴(ちづ)の次男であり、坂本直の実弟にあたる。明治2年(1869)、坂本家の本家である権平の養子に入り、幼名・高松習吉(たかまつ・しょうきち)から坂本南海男(さかもと・なみお)に改名した。 明治9年5月、高知の立志学舎・英学普通学科に入学、原書で英学を学び、成績はトップクラスであったという。やがて自由民権運動で活躍するようになり、明治17年には高知県会議員に当選して名を直寛に改名。翌年には高知教会で洗礼を受け、キリスト教徒となる。政治家として活躍するも当時の藩閥政治に強く抵抗し、明治20年には保安条例に抵触したとして投獄され、2年後に釈放されたが、間もなく水難事故で妻・鶴井(つるい)と義妹・冨(とみ)を失うなどの苦難が続いた。
入獄中に拓殖事業を思い立った直寛は、明治26年に県会議員を任期満了となったのち政治活動から離れ、キリスト教主義に基づく聖村建設の実現を目指し、明治28年、同志と共に合資会社北光社を設立。彼は初代社長に就任して北海道北見の開拓に着手する。北光社は北見開拓を目的として、直寛のほか、片岡健吉(かたおか・けんきち)、澤本楠弥(さわもと・くすや)、西原清東(さいはら・せいとう)ら土佐自由党のメンバーが中心となって設立された。明治30年4月、北光社による開拓移民募集に応募した112戸、約650人の移民団が高知浦戸港を出発。途中、船中ハシカの流行によって30余名が亡くなり、宗谷岬をまわってからは流氷に進路を阻まれるなど、入植に向けての航海は、困難極まる命がけのものであったという。やがて網走に上陸した移民団は、原始林生い茂るクンネップ原野を切り開き、現北見市開拓の先駆者となった。 視察のために既に北見入りしていた直寛は、この移民団を出迎えた後、移住準備のため一旦高知へ帰り、翌明治31年5月に家族と共に北海道浦臼へ移住する。当初、移住地は北見を考えていたようであるが、当地での実務を澤本が担当することになり、盟友・武市安哉(たけち・やすや)の急死によって浦臼の聖園農場の経営を引き継いだ土居勝郎(どい・かつろう)のすすめもあって浦臼への移住を決心したようである。北海道で政治上の理想実現も目指していた直寛にとって、石狩平野に位置する浦臼は政治活動にも都合の良い場所であった。
しかし、入植後間もなく石狩川大洪水が起こり、一帯が大損害を受けてしまう。直寛は材木で自ら講壇を作り、被災者の激励にあたると共に、民間有志の人々と共に救済活動にあたり、上京して板垣退助(いたがき・たいすけ)と面談の末、政府から80万円の援助を受けることにも貢献している。 明治35年2月、札幌でキリスト教系日刊紙「北辰日報」が創刊されると、その主筆に迎えられ、そのころ夕張炭鉱の鉱夫を中心に結成された、労働組合の先駆ともいえる「大日本労働至誠会」の会長にも推されている。しかし直寛は、間もなく伝道者としての道を選び、牧師となって軍隊や監獄での伝道活動や廃娼運動などに精力的に従事する。 旭川でピアソン夫妻と出会い、以後ピアソンに協力して旭川師団、十勝監獄、北見地方での伝道活動を行うなど、休む間もなく北海道各地を駆けめぐり、十勝監獄の囚人からは、“キリストの再来”と尊ばれるほど慕われたという。 明治44年9月、病気のため札幌にて永眠、享年59歳。幾度の試練を乗り越え、理想の実現を目指して妥協することなく生き抜いたその生涯は、叔父・龍馬の理想を継承したともいえる波瀾の人生であった。

■龍馬の志を継いだ人々 ④坂本直道(なおみち)
坂本直道(6代目)は明治25年(1892)3月生まれ。直寛の死後一旦は坂本家の家督を継ぐが、当時彼はまだ20歳の学生で他に事情もあり、約1年後の大正2年(1913)1月に隠居の形をとり、家督は直寛の長女・直意の婿養子・彌太郎(義兄)が継ぐことになる。 直道は、大正9年(1920)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、南満州鉄道株式会社に就職。昭和4年(1929)、国際鉄道会議出席の命令を受け、2年間の予定でフランス・パリ駐在となる。 昭和6年9月、帰国を目前にして満州事変が勃発。直道は情報収集のためパリに留まり、昭和8年、後の外務大臣・松岡洋右(まつおか・ようすけ)が国際連盟日本代表としてスイス・ジュネーブの国際会議に出張した際には、随員として松岡の補佐にあたった。フランスに戻った直道は、満鉄欧州事務所長、日仏同志会理事をつとめるかたわら、仏文雑誌『日仏文化』を発行するなど日本とフランスの文化交流に貢献した。 昭和14年9月、第二次世界大戦が始まり、直道は翌年6月に帰国するが、その頃の日米関係は悪化の一途を辿っていた。それを憂慮した彼は、両国の関係改善、戦争回避を目指して軍部や政界実力者への文書活動を行うが、そのために憲兵隊や特高警察の監視を受けるようになり、それが原因で満鉄参与を辞任する。 その後、直道は軽井沢に蟄居し、隣人だった後の首相・鳩山一郎(はとやま・いちろう)と共に戦後の祖国復興について語り、その構想は昭和20年11月の日本自由党結成につながった。直道は顧問に推されるも、政治の表面に出ることを嫌ったのか間もなく辞し、その後は日仏経済懇話会理事長、電波監理委員会委員などの役職を歴任した。 昭和27年以後は国際問題に取り組み、数々の論説や著書を起草すると共に、日本の政財界の有力者やアメリカの要人に対して意見書を送るなどの文書活動を行った。昭和16年、フランスから帰国して間もない頃、直道は彌太郎の勧めで断絶していた龍馬家を相続し、本籍を浦臼に移している。
昭和47年7月東京にて病没。享年80歳。地味ながらも平和路線の政治活動に粘り強く取り組んだ直道の生涯は、龍馬や直寛に通じるものがあるといえよう。

■龍馬の志を継いだ人々 ⑤坂本彌太郎(やたろう)
坂本彌太郎(7代目・旧姓浜武氏)は熊本県出身、明治33年(1900)、25歳の時に婿養子として坂本家に入り、明治35年、三井物産に入社して木材輸出の業務に携わる。その後、明治38年には独立して釧路で「坂本商会」を始め、大正3年以降は札幌に移住し、牧場や農場の経営のほか「北海道製綱株式会社」を創設して、マニラ麻を原料とするロープを製造した。大正9年には札幌区会議員にも当選しており、公園設営調査員の任にあたるなど地元では名士だったようだ。 彌太郎は大正2年12月の釧路での大火の際、龍馬の遺品や遺墨の一部を焼失してしまったこともあ り、焼失を免れた遺品を安全に保管するため、昭和6年(1931)に京都国立博物館に寄贈している。ちなみにこれらの龍馬の遺品は、平成11年6月、文化庁によって国の重要文化財に指定されており、彌太郎の貢献は大きいといえる。 昭和25年1月、彌太郎は広尾にある次男・直行の自宅で永眠。享年76歳。

■龍馬の志を継いだ人々 ⑥坂本直行(さかもと・なおゆき)
岳画家として名高い坂本直行(8代目)は明治39年(1906)7月、釧路に生まれる。彌太郎の次男にあたり、終戦直後にハルビンで亡くなった長男・彌直(ひろなお)に代わって坂本家を継いだ。 大正13年(1924)、北海道大学農学部に入学。また、北大山岳部創部と同時に入部し、北海道内の山々を精力的に歩いた。北大卒業後、温室園芸を学ぶために東京の園芸会社に就職して見習いとして勤務するも、2年後の昭和4年(1929)に経済的理由で退社し、札幌に戻った。 昭和11年(1936)、十勝原野と日高の山々に心を奪われて広尾村字下野塚の原野に入植し、その後酪農と農業に従事するかたわら山へ出向き、スケッチを続けた。
昭和32年、彫刻家峰孝(みね・たかし)の勧めで初めての個展を開催。以後札幌、東京において定期的に開催された。昭和35年には開拓地を離れ、画業に専念。児童詩誌「サイロ」へのカット提供の他、執筆活動も行う。後に札幌に転居し、ネパールやカナダへのスケッチ旅行にも度々出向いている。昭和49年には北海道文化賞を受賞。 直行は、龍馬が夢見た北海道の自然をこよなく愛し、素朴で大胆なタッチで生涯にわたり描き続けた。昭和57年5月札幌にて病没。享年75歳。後に「坂本直行記念館」が河西郡中札内村(なかさつないむら)に建てられた。
■坂本龍馬略年表
【坂本家 家系図】
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■龍馬と後継者ゆかりの地
①龍馬が生まれ育った土佐(高知)
②脱藩直後に滞在した下関
③剣術修行で青春を過ごした江戸
④海軍操練所のあった神戸
⑤松平春嶽などと交流した福井
⑥お龍との新婚旅行の地・薩摩
⑦亀山社中、グラバー邸がある長崎
⑧攘夷派の公卿と接触した大宰府
⑨高杉晋作、桂小五郎がいた長州・萩
⑩龍馬が眠る幕末の舞台・京都
⑪澤辺琢磨と坂本直が渡った箱館(函館)
⑫坂本直寛ゆかりの地・北見
⑬直寛が家族とともに入植した浦臼
⑭坂本彌太郎が坂本商会を設立した釧路
⑮坂本直行が入植した広尾
⑯直寛、直行らが眠る札幌(本家所在地)
■坂本龍馬略年表
【元号 西 暦 数年 主な出来事】
①天保6 1835 1 ○11月15日、高知城下本丁筋1丁目に、郷士・坂本八平の次男として生まれる。
②弘化3 1846 12 ○6月10日、母・幸死去。この年、楠山塾に入門するが、他の塾生とのトラブルにより退塾となる。
③嘉永元 1848 14 ○日根野弁治道場に入門、小栗流剣術の修行を始める。
④嘉永6 1853 19 ○4月中旬、剣術修行のため江戸の北辰一刀流・千葉定吉道場に入門。
○6月3日、ペリー艦隊が黒船4隻を率いて浦賀沖に来航。龍馬も品川海岸の警備にあたる。
○12月1、兵学者・佐久間象山に入門、西洋砲術を学ぶ。
⑤安政元 1854 20 ○3月、「日米和親条約」締結。
○6月23日、帰郷。その後「小栗流和兵法十二箇条・二十五個条」を受ける。
○11月頃、土佐藩の絵師・河田小龍から海外事情を聞く。
⑤安政2 1855 21 ○12月4日、父・八平死去。
⑦安政3 1856 22 ○8月20日、剣術修行のため、再び江戸へ。
⑧安政5 1858 24 ○1月、「北辰一刀流長刀兵法目録」を受ける。
○9月3日、江戸での2度目の剣術修行終え、帰国。
○「安政の大獄」起こる。
⑨万延元 1860 26 ○3月、「桜田門外の変」で井伊直弼暗殺される。
⑩文久元 1861 27 ○8月、武市瑞山らが「土佐勤王党」を結成。後に龍馬も加盟。
⑪文久2 1862 28 ○3月24日、龍馬、沢村惣之丞と共に脱藩。下関に向かう。
○8月、江戸に下り桶町千葉道場に寄宿。
○10月、千葉重太郎と共に、赤坂の勝海舟邸を訪問、弟子となる。
⑫文久3 1863 29 ○2月25日、勝海舟の求めで、龍馬らの脱藩罪赦免となる(しかし12月に再び脱藩の身となる)。
○5月16日、海軍塾の資金依頼のため、越前福井藩を訪ねる。
○9月21日、土佐藩、勤王党弾圧を開始。武市瑞山ら投獄される。
○10月、神戸で勝の海軍塾・塾頭になる。
⑬元治元 1864 30 ○この頃、勝海舟との関係で各地を奔走、名士と会う。
○8月、京都薩摩藩邸で西郷隆盛と会見。
○11月10日、勝海舟が軍艦奉行を免職となる。龍馬の身柄を薩摩藩に託す。
⑭慶応元 1865 31 ○3月18日、神戸海軍操練所が閉鎖となる。
○5月1日、西郷隆盛に伴われ、薩摩に初めて入国。
○この頃、薩摩藩庇護のもと長崎に「亀山社中」を結成。
○閏5月6日、下関で桂小五郎と会談、薩長同盟を説く。
○6月下旬、中岡慎太郎と共に京都薩摩藩邸で西郷と会談。
⑮慶応2 1866 32 ○1月21日、「薩長同盟」締結。
○1月24日未明、伏見の寺田屋で幕吏に襲われ、負傷。
○2月5日、桂小五郎の求めで薩長同盟の保証人になる。
○3月5日、薩摩藩船で大坂から鹿児島へ。お龍との新婚旅行となる。
○6月、幕長戦での下関海戦に参戦し、長州軍を応援、高杉晋作と会談。
⑯慶応3 1867 33 ○4月上旬、脱藩罪を許されて亀山社中を改編、土佐藩庇護のもと「土佐海援隊」となり、
龍馬は隊長となる。
○4月23日、「いろは丸事件」が起こる。
○6月9日、後藤象二郎と土佐藩船で長崎を出航し、「船中八策」を起草する。
○6月22日、龍馬と中岡の立会いで、薩摩の西郷・大久保らと土佐の後藤・福岡らの間に
「薩土盟約」締結。
○9月29日、脱藩以来、最初で最後となる帰郷で実家に帰る。
○10月3日、大政奉還建白書が山内容堂から幕府に提出される。
○10月14日、徳川慶喜、「大政奉還」を願い出て翌日勅許。討幕の密勅、薩長に下る。
○11月上旬、「新政府綱領八策」を起草。
○11月15日、京都・近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲われ、凶刃に斃れる。
○12月9日、「王政復古の大号令」が出される。
⑰慶応4 1868 ○3月、新政府「新政府綱領八策」をもとに「五箇条の御誓文」を発布。
~明治元 ○4月11日、江戸城無血開城。
○閏4月24日、後に龍馬の跡目を継ぐ甥・高松太郎(坂本直)が、新政府の役人として蝦夷地・
箱館(現在の函館市)に渡る。
○閏4月27日、海援隊解散となる。
○明治維新。
■龍馬の後裔略年表
【元号 西 暦 人物 主な出来事】
天保5 1834 琢磨 ○1月5日、山本代七の長男として土佐に生まれる。
天保13 1842 直 ○11月1日、高松順蔵の長男として生まれる。
嘉永6 1853 直寛 ○10月5日、高松順蔵の次男として生まれる。
安政4 1857 琢磨 ○江戸でトラブルを起こし、切腹させられる恐れもあったところを龍馬と武市の計らいで助けられ、
箱館に渡る 。
文久元 1861 直 ○9月、武市瑞山率いる土佐勤王党に加盟する。
文久3 1863 直
○龍馬に誘われて勝海舟の門下生となり海軍術を学ぶ。以後、龍馬と行動を共にする。
元治元 1864 琢磨 ○新島襄の密航に協力し、6月14日夜、無事成功する。
慶応4 1868 直 ○閏4月、新政府の役人として箱館に渡る。
琢磨 ○閏4月、箱館においてロシア正教司祭・ニコライによって、日本人として初めて洗礼を受ける。
明治2 1869 直 ○新政府軍の一員として箱館戦争に従軍。
直寛 ○坂本家の本家である坂本権平の養子となる。
明治4 1871 直 ○朝廷の命により龍馬の跡目を相続。
明治8 1875 彌太郎 ○熊本で出生。
琢磨 ○ハリストス正教会の司祭に叙せられる。
明治9 1876 直寛 ○5月、立志学舎・英学普通学科に入学。
明治17 1884 直寛 ○高知県会議員に当選。
明治18 1885 直寛 ○高知教会で洗礼を受け、キリスト教徒となる。
明治20 1887 直寛 ○藩閥政治に強く抵抗し、保安条例に抵触したとして投獄される。
明治22 1889 直 ○病気を理由に宮内省を退職し、高知に戻って直寛宅に同居する。
明治25 1892 直道 ○3月5日、直寛の長男として生まれる。
明治28 1895 直寛 ○北海道開拓を目的として、合資会社・北光社を設立。初代社長に就任する。
明治29 1896 直寛 ○8月、澤本楠弥、前田駒次らと共に、北見・クンネップ原野を視察。
明治31 1898 直寛 ○5月、家族と共に北海道浦臼へ移住する。
直 ○11月7日、高知にて没(享年57歳)。
明治34 1901 彌太郎 ○婿養子として、25歳で坂本家に入る。
明治38 1905 彌太郎 ○釧路で坂本商会を始める。
明治39 1906 直行 ○7月26日、彌太郎の次男として釧路で生まれる。
明治44 1911 直寛 ○9月6日、札幌で没(享年59歳)。
大正2 1913 琢磨 ○6月25日、東京にて没(享年80歳)。
彌太郎 ○1月、直道に代わり、坂本家の家督を継ぐ。
大正3 1914 彌太郎 ○札幌に移住する。
大正9 1920 直道 ○東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、南満州鉄道株式会社に就職。
彌太郎 ○札幌区会議員に当選。
大正13 1924 直行 ○北海道大学農学部に入学。
昭和4 1929 直道 ○フランス・パリ駐在となる。
昭和6 1931 彌太郎 ○龍馬の遺品を京都国立博物館に寄贈する。
昭和11 1936 直行 ○十勝原野と日高の山々に心を奪われ、広尾村字下野塚に入植。
昭和15 1940 直道 ○フランスから日本へ帰国。
昭和16 1941 直道 ○龍馬家を再興する。
昭和25 1950 彌太郎 ○1月、広尾にある直行の自宅で没(享年76歳)。
昭和32 1957 直行 ○札幌にて初めての個展を開催。以後、定期開催。
昭和47 1972 直道 ○7月30日、東京にて没(享年80歳)。
昭和49 1974 直行 ○北海道文化賞受賞。
昭和57 1982 直行 ○5月2日、札幌にて没(享年75歳)。
※金額表記は消費税込になります。

■北海道坂本龍馬記念館建立趣意
今から140年程前に、近代日本の夜明けと言われる大改革「明治維新」が起こりました。この原動力の中心人物、坂本龍馬は、あたかもこの改革のために生れて来たのではないかと思われます。わずか5年の間に世界にも例がない無血革命をほぼ成し遂げ、33歳の若さで逝ったのでした。
これは、龍馬の手紙の一節です。何の関係もないと思われる坂本龍馬と北海道ですが、龍馬の想いは新たなる大地、北海道に向いていたのです。
なぜなら龍馬は、幕府の解体により職を失う若い武士達のエネルギーを蝦夷地・北海道の防衛と開拓に向かわせようという壮大な計画を立てていたのでした。龍馬にとって蝦夷地は彼の理想と情熱を託す新天地だったのです。後年、この計画は明治新政府に受け継がれ、「屯田兵」として実現し、今日の道民生活の基礎が築かれました。
坂本龍馬は北海道の父とも言うべき人物なのです。
龍馬自身は北海道の地に足を踏み入れることはできませんでした。しかし、甥の坂本直寛氏(5代目)が龍馬の遺志を継いで北見に入り、その後浦臼に入植し、一族共々北海道の礎となりました。現在も、その御子孫が札幌で生活なさっています。坂本家直系の8代目、山岳画家の坂本直行氏は、坂本直寛氏の娘婿、坂本弥太郎氏(7代目)の息子であり、9代目の坂本登氏は、当会顧問であります。 幕末の国難とは相違あるものの、それ以上に難しい病んだ時代である今こそ、あの明治維新を成し遂げた龍馬に学ぶ時ではないでしょうか。新しい北海道、ひいては日本を築き上げる為に、そして地域や時代を超えてより良い未来に向けての「平成の維新」。そのための原動力である個人の中に秘める可能性を追い求め、未来に向って大きく翔き、挑戦することの素晴らしさを伝えたい。 北海道坂本龍馬記念館は、単なる資料館ではなく、来館者に対し可能性や自己実現に向けたメッセージを発信し、未来を担う人々を応援する「龍馬塾」でありたいと願っています。 北海道の宝として末永く活用されるよう、NPO法人が運営・管理を致します。道民一人一人の力で建立することを基本としますので、御賛同者の御芳名は記念館に記し、末永く子孫に伝えられます。 諸事多難、先行不透明な時でありますが、大きな夢に突き進んだ坂本龍馬の力をいただき、子供達、若者達の未来に夢を与え、夢を叶え、実現する「龍馬塾」となりますよう、皆様の心よりの御協力と御賛同をお願い申し上げます。
NPO法人 北海道坂本龍馬記念館実行委員会(応援隊) 一同

■北海道坂本龍馬記念館に寄せて
坂本龍馬は、蝦夷開拓の意志を持ち行動をしていましたが果たせず、生涯を閉じてしまいました。しかし、その遺志を継いで坂本直寛が一族を引き連れて北海道に渡り、北海道開拓に大きな足跡を残しました。そこで、北海道に記念館を建立し、坂本龍馬の大きな意志の足跡を、道内はもとより日本中の皆さまに知っていただくことができたら、大変意義のあることと思っております。平成の龍馬が求められている時代に、その生き方・生き様が共感を呼ぶものと思います。
坂本家9代目当主・記念館顧問 坂本 登
※金額表記は消費税込になります。

■記念館のご案内
■函館駅からの交通アクセス
■市電を使う
乗車料金 大人200円
『函館駅前』→2系統・谷地頭行/5系統・函館どつく行
乗車時間約5分 『十字街』電停下車すぐ
龍馬像は右側 記念館は左側
■函館バスを使う
乗車料金 大人200円
『棒二森屋前』→1系統・舟見町行→『十字街』
徒歩1分 乗車時間 約7分
『函館駅前』→4番のりばレクサ元町系統・
元町行→『十字街』 徒歩1分 乗車時間 約15分
※金額表記は消費税込になります。

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 「ONE_1」シリーズ
2,200円
【Tシャツ ONE_1(黒)】
蝦夷地を目指した龍馬の志を表現したTシャツ。胸に「ONE_1」、背中に龍馬像&ロゴ入り
(サイズ M・L・XL)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 「ONE_1」シリーズ
2,200円
【Tシャツ ONE_1(白)】
蝦夷地を目指した龍馬の志を表現したTシャツ。胸に「ONE_1」、背中に龍馬像&ロゴ入り
(サイズ M・L・XL)

■人気定番シリーズ
880円
【龍馬お札タオル】
100万円札の肖像に龍馬がプリントされた、使って楽しいフェイスタオル
(綿/W80cm×H=33cm)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 「ONE_1」シリーズ
990円
【扇子 ONE_1(黒)】
蝦夷地を目指した龍馬の志を表現した扇子、シルク製、Tシャツとセットで

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 「ONE_1」シリーズ
550円
【蒔絵シール ONE_1(金)】
蝦夷地を目指した龍馬の志をあなたの携帯電話やゲーム、パソコンなどに

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 「ONE_1」シリーズ
550円
【蒔絵シール ONE_1(銀)】
蝦夷地を目指した龍馬の志をあなたの携帯電話やゲーム、パソコンなどに

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 「ONE_1」シリーズ
330円
【クリアファイル ONE_1】
蝦夷地を目指した龍馬の志を表現したクリアファイル (A4サイズ)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
2,200円
【蝦夷地の龍馬像グラス(桐箱入り)】
蝦夷地の龍馬像と、坂本家9代・坂本登氏執筆による龍馬の蝦夷地開拓への決意語録が彫刻された高級オリジナルグラス

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
2,200円
【Tシャツ 龍馬像(白)】
胸に坂本家家紋、背中に龍馬像&語録入り
(サイズ M・L・XL)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
2,200円
【Tシャツ 龍馬像(黒)】
胸に坂本家家紋、背中に龍馬像&語録入り
(サイズ M・L・XL)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
3,300円
【セーラー製蒔絵高級ボールペン】
書き心地が良く蒔絵も美しい(ボールペン黒 +赤&シャープ)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
990円
【扇子 龍馬語録(黒)】
Tシャツとセットで持ちたい、龍馬ファンのための一品

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
990円
【扇子 龍馬語録(白)】
Tシャツとセットで持ちたい、龍馬ファンのための一品

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
550円
【龍馬絵馬】
龍馬像建立を記念してつくられた台付き絵馬、あなたの願いを龍馬が応援

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
330円
【クリアファイル龍馬像(黒)】
スケールの大きさを感じる龍馬像&ロゴ入り (A4サイズ)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
330円
【クリアファイル 龍馬語録(クリア)】
龍馬語録入り、蝦夷地への龍馬の熱い想いが伝わってきます。 (A4サイズ)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
550円
【蒔絵シール 龍馬下1(金)】
龍馬ファンの携帯電話やゲーム機、パソコンなどに必須のアイテム(ロゴが下部に入ったタイプ)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
550円
【蒔絵シール 龍馬下1(銀)】
龍馬ファンの携帯電話やゲーム機、パソコンなどに必須のアイテム (ロゴが下部に入ったタイプ)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
550円
【蒔絵シール 龍馬上2(金】
龍馬ファンの携帯電話やゲーム機、パソコンなどに必須のアイテム (ロゴが上部に入ったタイプ)

■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 蝦夷地の龍馬像シリーズ
550円
【蒔絵シール 龍馬上2(銀)】
龍馬ファンの携帯電話やゲーム機、パソコンなどに必須のアイテム (ロゴが上部に入ったタイプ)

■人気定番シリーズ
13,200円
【復刻名刀 陸奥守吉行 (むつのかみ・よしゆき)】刀のみ
龍馬が愛した名刀・吉行を復元。本物に迫る美しさと握り心地を持つ美術刀 ※刀の全長 104cm

■人気定番シリーズ
1,100円
【記念館ガイドブック (2冊セット/改訂版)】
展示内容を豊富な写真と共にわかりやすく紹介、未公開の坂本家写真などを新たに追録、ファン必見! ポスター付録付

■人気定番シリーズ
2,200円
【龍馬グラス (桐箱入り)】
龍馬の肖像と語録が彫刻された高級感あふれるグラス。底面には家紋と記念館のネーム入り

■人気定番シリーズ
880円
【龍馬マウスパット(緑)】
宝船に乗った龍馬イラスト入りのカラフルなマウスパット

■人気定番シリーズ
880円
【龍馬マウスパット(赤)】
宝船に乗った龍馬イラスト入りのカラフルなマウスパット

■【お申し込み方法】
【お申し込み方法】
オーダーシートをダウンロードして頂き、「購入品名」「種類」「サイズ」「価格」などをご記入の上FAXまたは、メールにてご注文下さい。
お急ぎの場合はお電話でも受付致します。
【オーダーシート】
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送料・お支払方法について(特定商取引法について)
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北海道坂本龍馬記念館
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〒040-0053 北海道函館市末広町8-6
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■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 お支払いについて
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☆商品のご注文後、5日以内にお振込下さい。
■口座振込(銀行/郵便局)
特定非営利活動法人 北海道坂本龍馬記念館実行委員会
①北洋銀行 真駒内中央支店 (普)3478144
②郵便貯金総合通帳「ぱるる」 記号:19030 番号:53920131
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■代金引換(商品金額、送料の他に下記手数料が追加となります)
代引手数料 ・1万円以下 330円(税込)・3万以下 440円(税込)
※送料は、お申し込み頂いてからご連絡させて頂きます。
※商品発送後、運送会社による不在表投函後、
・不在期間が2週間以上経過した場合
・受け取り拒否の場合
往復送料はお客様のご負担とさせて頂きます。
■北海道坂本龍馬記念館 函館社中 特定商取引法
販売業者 NPO法人北海道坂本龍馬記念館実行委員会
代表者 三輪 貞治
所在地 〒040-0053 北海道函館市末広町8番6号
電話番号 0138-24-1115
FAX番号 0138-24-1116
メールアドレス ryoma1115@amail.plala.or.jp
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