特派員レポート
小曾根公園その2
前回レポートした小曾根邸跡ですが、現地周辺を歩いてみると「あっ!!」と驚いてしまうことが!!
前回の写真を再度掲載してみました。
写真奥に写っている建物から解るように、小曾根邸の裏手は崖になっています。
実は、この崖より手前が乾堂の父・小曾根六左衛門が埋立工事を行った「小曾根築地」なのです。
さて、小曾根邸跡である児童公園に行ってみますと、滑り台の奥に崖沿に上る石段が見えます。石段の下の方は藪に隠れていて見えませんが、位置から判断すると「小曾根邸裏手」に繋がっていたものと思われます。
いったい何のための石段だったのでしょうか?
現在この石段は老朽化がひどく危険なため通行禁止になっていますが、すぐ近くに同じような石段があり、そちらは現在も通行可能です。
そこで、その石段を上って崖の上に出ると、そこには「居留地境」と記された石柱が立っています。
ということは、小曾根邸裏の石段は外国人居留地に通じていたということになります。
そう、この辺りはグラバーやリンガー、オルトといった外国人が住んでいた「南山手外国人居留地」なのです。
そのまま旧居留地内の道を歩いていきますと、長崎地方気象台を過ぎたあたりに、さらに上へ続く石段が現れますので、それを上りますと・・・・
なんと「グラバー園出口」に出るのです!
ここで注意すべきことは、出口というのはあくまでも「グラバー園」の出口であって、「グラバー邸」としては表玄関であるということです。
( 幕末に活躍した外国人商人であるグラバー、リンガー、オルトの3人の屋敷跡を中心に整備されたのが「グラバー園」で、「グラバー邸」は園の出口付近にあります )
グラバー園出口
画面中央に写っているのはグラバー園出口付近にある「展望台」です。
ここで注目すべきことは、小曾根邸から僅か10分程でグラバー邸に到ることができるということです。
海援隊本部であった万才町の小曾根(英四朗)邸からグラバー邸までは直線距離で約3㎞、実際に歩くとなると1時間近くかかるのではないでしょうか?
小高い山の上のある亀山社中からだとさらに15分程余計に時間がかかります。
ところが小曾根(乾堂)邸からグラバー邸までは10分程しかかかりません。
龍馬にとって小曾根(乾堂)邸は、グラバー達と商談を進めるうえで極めて都合がよい場所だといえるでしょう。
おそらく海援隊「小曾根築地」出張所として利用していたものと思われます。
「乾堂さん、グラバーさんと取引の話があるけん、何日か泊めておうせ」
と龍馬が訪ねてきたこともあったのではないでしょうか?
( なお、小曾根乾堂は小曾根六左衛門の長男、英四朗は四男です )

グラバー邸
龍馬ゆかりの長崎名所といえばグラバー邸ですが、書籍等にグラバー邸全景を掲載する際のアングルが二つあることをご存知でしょうか?
異人館のシャレた感じが強調されるアングルです。
もう一つのアングルは、手前の花壇が写っていなければ少し地味な感じがする異人館です。
では、龍馬関連本に掲載されているのはどちらが多いか?というと、
かつては、前掲の「温室が入ったアングル」が多かったのですが(名作漫画「お~い!竜馬」で描かれているグラバー邸も、このアングルです)、
昨今では後掲の「少し地味な感じ」のアングルが多くなっています。
建物は少し地味でも、手前の花壇も一緒に写すことで華やかになる
ということが最大の理由ですが、それとは別の理由もあります。それは、
グラバー邸は増改築を繰り返した建物である
ということです。実は温室が作られたのは明治20年代以降のことで、幕末には存在していないのです。

↑現在のグラバー邸を上から見ると、クローバーを思い浮かべるような形状をしていますが、それは明治になって増改築を繰り返した結果なのであって、幕末は全く別の形状をしていました。
右に掲げたのは明治20年代以降現代に至るグラバー邸の平面図ですが、クランク状に曲った廊下や歪な形状の部屋配置など「いかにも増改築した建物」感がします。
また、各部屋をつなぐ廊下が少ないことにお気づきでしょうか?これはグラバー邸における部屋間の移動は、外側の回廊を通ることが基本となっているからです。
ちなみに前掲の「異人館のシャレた感じ」のアングルの写真は、右図の左上の方から撮影したものです。
↑ 現在(明治20年代以降)のグラバー邸平面図
一方、幕末のグラバー邸は、下に掲げるように
グラバーの寝室と客間がL字型に繋がったシンプルな形状
をしていました。
「夫人室・使用人室・調理室」と「母屋」をつなぐ廊下はなく、それぞれ独立した別棟になっています。
前掲の現在の平面図と見比べてみれば、どこが増改築されたのかが判って面白いと思います。
このように温室周辺は幕末当時は存在していない構造物なので、温室側から撮った写真を龍馬関連本に掲載したりすると、
「判ってないなぁ・・・・」
と非難されることになってしまうのです。
ちなみに「少し地味な感じ」の写真は、上図の左下から撮ったアングルになりますので、幕末当時に存在していた構造物しか映っていません。これならば龍馬関連本に掲載しても違和感がないので非難されません。
さて、龍馬ファンにとってグラバー邸で気になることと云えば「隠し部屋」の場所ですが、それは
「夫人室・使用人室・調理室」の屋根裏
にあります。正確には「使用人室」の屋根裏ですね。
「隠し部屋」への入口は、夫人室と使用人室の間にある通路の天井にあるので、ハシゴを使って出入りするようになっていました。
観光丸
長崎の旅客船は大波止(おおはと)ターミナルから発着します。その発着する船の中に一艘だけ異質の船があります。黒い船体に3本マストの外輪船「観光丸」です。
「ふ~ん、長崎港を観光するための船だから観光丸って云うのか・・・・」と思ったあなた、それ間違っています。
観光丸の「観光」とは、中国の古典「易経」より引用したもので「国の光を観る」という意味です。
観光丸は1852年にオランダのアムステルダムにある国立造船所で建造され、1855年(安政2年)にオランダ国王より幕府に献上されました。オランダでの名称はSoembingでしたが、先に述べたように日本到着後「観光丸」に改称されています。
↑ (左)観光丸
観光丸は幕府が初めて所有した洋式軍艦で、長崎海軍伝習所の練習艦として使用されました。下掲の「長崎海軍伝習所絵図」を一度は目にしたことがある方もいるかと思いますが、この絵図の右上に描かれている黒船が観光丸です。
↑ (右)左図の拡大図
出島の沖に観光丸が浮かんでいます
↑ (中)「長崎海軍伝習所絵図」(鍋島報效会所蔵)
長崎海軍伝習所では海軍戦略や操艦術だけでなく数学・物理・化学等の学問や製鉄所建設・造船所実習等の講義も行われ、日本の近代化に大きく貢献しました。
安政2~4年(1855~1857年)に行われた第一次伝習に参加した人物の中には、
幕臣・勝麟太郎(海舟)、榎本釜次郎(武揚)
佐賀藩・佐野栄寿左衛門(常民)
薩摩藩・五代才助(友厚)
の名が見られます。
長崎海軍伝習所における第一次伝習の締めくくりとして、観光丸は江戸まで航海します。江戸では、新たに開設された「軍艦教授所」の練習艦として使用されました。
安政6年(1859年)、観光丸は遣米施設随行船の候補となりますが、アメリカ側から反対され、随行船には「咸臨丸」が選ばれることとなりました。もしもアメリカ側の反対がなければ、日本初の太平洋横断を成し遂げたのは観光丸だったのです。
そして元治元年(1864年)、観光丸は「神戸海軍操練所」の練習艦になります。
つまり観光丸は、勝海舟と坂本龍馬の師弟に「海軍とは何か、蒸気船とは何か」を教えた偉大な船ということになります。
さて、その偉大な船を復元したのが大波止ターミナルの観光丸です。通常、観光に用いられる復元船と云えば「名前は同じでも似ても似つかない船体」だったりするのですが、この「復元船・観光丸」は違います。
なんと、オランダのアムステルダム国立海事博物館に保存されていた図面を基に、オランダの造船所で建造され、実際にオランダから長崎まで航走してきたというシロモノです。
外洋航海が可能なレベルで復元された関係上、マスト等は金属製になり、レーダーやスクリュー等も装備されていますが、それ以外は「甲板の板材」から「室内装飾の材質」に至るまで、可能な限り忠実に復元されています。
この「復元船・観光丸」を発注したのは、ハウステンボスの前身である「長崎オランダ村」です(「長崎オランダ村」の規模を拡大し、移転開業したのが「ハウステンボス」です)。
ハウステンボスの債務整理の一環として、長崎市の「やまさ開運」に譲渡され、現在に至るという複雑な過去を持つ復元船ですが、現在の大波止ターミナルの位置は「長崎海軍伝習所絵図」で描かれている観光丸の位置に近い場所に該当しますので、「落ち着くところに落ち着いたな」という気がします。
ちなみに幕末をテーマにしたドラマや特番で「黒船」として撮影されているのは、この「復元船・観光丸」とみて間違いないでしょう。
それから名作漫画「お~い!竜馬」における観光丸のカットは全て、「復元船・観光丸」を取材したものです。
長崎にお越しの際は、是非、「新・観光丸クルーズ」をお楽しみください。

小島養生所
↑に掲げたのは鍋島報效会所蔵の「長崎海軍伝習所絵図」ですが、一度は目にしたことがある方もいるのではないでしょうか?この絵図をよく見ると幕末の長崎港の様子が詳しく描かれていることが判ります。
この絵図の左上の部分を拡大してみましたのが上記右図です。
これをさらに拡大してみますといろんなものが見えてきます。
↑(左)唐人屋敷 ↑(中)新地 ↑(右)唐船。
「長崎海軍伝習所絵図」の左上部分は中華エリアだったのです。
「唐人屋敷」は、我が国が開国する以前に中国人専用居留地だった場所です。
鎖国と云えばオランダ以外とは国交がなかったというイメージがありますが、中国や朝鮮とも貿易はありました(貿易がなければ「漢方薬」は作れませんよね)。
「新地」は、唐人屋敷前面の海を四角形に埋め立てて作った人工島です。
出島同様、現在は周辺の海が埋め立てられてしまったので人工島の面影は全く残っていません。しかし新地エリアは日本三大中華街のひとつ「長崎新地中華街」として今日賑わっています。
「唐人屋敷・新地」エリアは、長崎の冬の風物詩「ランタンフェスティバル」のメイン会場になります。期間中このエリアはランタンの幻想的な光に包まれます。
実はここまでは前座噺で本題はこれから・・・・
飽の浦製鉄所
元治元年(1864年)、勝海舟はイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四ヶ国連合艦隊による長州攻撃を阻止すべく長崎出張を命ぜれ、龍馬をはじめとする海軍塾生もこれに同行しました。
海舟は四ヶ国連合艦隊と交渉を行う傍ら長崎の随所を視察しましたが、飽の浦(あくのうら)にある「長崎製鉄所」も視察した場所の一つです。
下に掲げたのは鍋島報效会所蔵の「長崎海軍伝習所絵図」ですが、一度は目にしたことがあるのではないでしょうか?この絵図をよく見ると「長崎製鉄所」が描かれていることが判ります。
右上の部分を拡大すると「煙を出す煙突が2本描かれている」ことが判ります。
これが飽の浦の「長崎製鉄所」です。
長崎海軍伝習所総監・永井尚志は大型船建造所建設の必要性があることを幕府に説き、オランダの協力を得て製鉄所を建設しました。設立当時の名称は「長崎鎔鉄所」といいます。


↑(左)三菱重工業長崎造船所
飽の浦工場内にある記念碑
↑(右)長崎製鉄所古写真
鍛冶場・鋳物場も備えた長崎製鉄所には兵器生産の機能を期待されたのですが、残念なことにそこまでの機能はなく、実際には艦船の修理が主体の造船所として利用されることとなりました。なお、十分な機能を備えることができなかった原因はオランダ側にあるのではなく、十分な予算を準備しなかった幕府側にあるようです。
幕府はフランスの指導で横須賀にも同様に施設を作ろうとしていましたから、長崎へ回す予算がなかったのでしょう。
飽の浦工場内にある記念碑
まさかとは思いますが、横須賀製鉄所の建設を進めていたのは勝海舟と何かと比較される小栗忠順ですので、
もしかすると「そういう事情」もあるのかもしれませんね・・・・
ちなみに横須賀製鉄所ですが、後に長州藩との戦闘で被弾した四ヶ国連合艦隊を修繕することになります。
龍馬が「日本を今一度せんたくいたし申候」で有名な手紙にて
「あきれはてたる事ハ、其長州でたゝかいたる船を江戸でしふく(修復)いたし」
と書いているのが、それです。
話を長崎製鉄所に戻しましょう。勝海舟は日記に
「三月七日 飽の浦製造局一見。蘭人両人に面会。此地、萬事馳寛成るを観ず。
小子をして惣督全備成さしめむことを求む。此処の器械所は、
往時我が建議し製造せし處にて、洋人是を知る、今にして全備せず、如何又不少。」
と記しています。
さしずめ オランダ人技師から「工事の進捗状況が遅いし、必要な機械も準備されていない。
ここの建設は勝さんが提案したことでしたよね?だったら責任を取ってくださいよ」
と言われてしまった・・・・どうしたものか・・・・
といったところでしょうか。
海舟は龍馬らに最先端設備を整えた造船所を見せてやるつもりだったのに、意に反して未完成の(しかも中途半端な施設の)造船所を見せることになったのですから面目丸つぶれです。
ちなみに、この「飽の浦製鉄所」ですが、明治維新後に「長崎造船所」に改称され、さらには岩崎弥太郎に払い下げられ、今日の三菱重工業長崎造船所の礎となりました。
今や長崎造船所は「グラバー邸から見る対岸は全て三菱造船所」といわれるほどの大規模なものになりましたが、スタートは中途半端な規模だったのです。
飽の浦は現在も長崎造船所の中核であり、正門も本部ビルもこの地区にあります。
そして「明治日本の産業革命遺産群」として世界遺産に登録されたものの一つ
↑(左)三菱重工長崎造船所・正門
この写真を拡大したのが下の写真 「ジャイアント・カンチレバー・クレーン」
があるのも、ここ飽の浦です。
「暗殺されなかったならば三菱の創始者は龍馬だったかもしれない」というのはよく聞く話ですが、長崎造船所の前身が海舟と因縁浅からぬ「飽の浦製鉄所」であることを考えれば「まさにその通りだよなぁ」と頷いてしまう私でした。
↑(左)長崎駅から歩道橋を乗り継いで「文明堂ビル」に着いたならば、「文明堂ビル」とコンビニの間にある路地「長崎駅前商店街」を奥まで進みます。
↑(中)(右)「長崎駅前商店街」の終点は階段になっています。このように道路が突然階段に変わったりするのは、長崎ではよくあることです。
階段を上ると、横断歩道の向うに路地が見えますが、これが「筑後通り」です。
「筑後通り」は少しきつめの坂道で、坂を上りきったところで右に曲がっています。

「筑後通り」をさらに10分ほど歩きますと「聖福寺」に着きますが、ここも龍馬ファンの聖地です。
この「聖福寺」は、あの「いろは丸事件」の舞台となった場所なのです。
長崎での談判において紀州藩は、この寺を宿舎としました。龍馬が万国公法を片手に談判を行ったのも、この場所です。
この聖福寺が老朽化による倒壊の危機にあったことをご存知でしょうか?檀家や有志の寄付だけでは修復費の捻出ができず、荒れるに任せる状況が長年続いていたのです。
↑(左)聖福寺・鬼塀
ところが、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」の放送により転機が訪れます。「龍馬ゆかりの聖福寺が、このまま朽ち果てていいのか?」という市民の声が保存運動に繋がったのです。
そして2014年、事態が大きく動きます。聖福寺の大雄宝殿・天王殿・鐘楼・山門が国の重要文化財に指定されたのです。これにより保存・修繕費について国から大幅な補助が受けられるようになりました。
「聖福寺」についても語るところは多いのですが、紙数の都合がありますので割愛して先へ進みます。
「聖福寺」からに10分ほど歩きますと「筑後通り」終点、「長崎歴史文化博物館」に着きます。
実はこの博物館は、長崎奉行所立山役所跡に建てられています。
長崎奉行所には江戸町役所(現長崎県庁所在地)と立山役所の二か所の役所があり、出島や唐人町に近かった江戸町役所が外国人居留地関係の事務を取り扱い、それ以外の一般的な市中の事務を立山役所が扱ったらしいです。
↑ (右)長崎奉行所・立山役所(長崎歴史文化博物館)
「らしいです」としたのは、明確な資料を私が見つけることができなかったからでして・・・・
英国人水夫が殺害されたイカルス号事件では、長崎一の暴れん坊集団である亀山社中に容疑がかかってしまった為、龍馬も奉行所へ出頭することになりました。なお、その際に龍馬が出頭したのは江戸町役所ではなく、この立山役所だといわれています。もし、それが事実ならば「異人が絡んでいる事件は江戸町役所の管轄」という区分けは成立しなくなってしまいます。
どなたか詳しい方がおられましたら、ご教授いただけると幸いです。
以上、駆け足で申し訳なかったのですが、「筑後通り」を紹介させていただきました。
長崎へお越しの際は、「龍馬ファンの聖地」がズラリと並んでいる「筑後通り」に是非足を運んでください。