特派員レポート

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小曾根公園

長崎税務署の向かい側にある「小曾根公園」という小さな公園をご存知でしょうか?

滑り台とブランコとシーソーがあるだけの小さな児童公園なのですが・・・

実はここ、龍馬のパトロンだった小曾根乾堂の屋敷跡なのです。

税務署付近の地図

長崎税務署と小曾根公園の位置関係がよく解ると思います。

長崎税務署を含むこの辺り一帯は「小曾根築地」と呼ばれる埋立地で、乾堂の父・小曾根六左衛門が松平春嶽をスポンサーとして安政6年に完成させました。

また、右端に「グラバー園売店」という文字が見えることから、この地がグラバー邸に近いことがわかると思います

小曾根六左衛門は、現在でいうところの「国際貿易センター」を建設するために「小曾根築地」を造成したのですが、完成した「小曾根築地」は幕府に接収され、外国人居留地となりました。

後に「小曾根築地」の一画(現在の小曾根公園の場所)に小曾根乾堂が屋敷を建てますが、周囲が外国人居留地だったためか小曾根邸は当時としては非常に珍しいコンクリート造だったといわれています。

なお、小曾根乾堂にはキクという一人娘がいましたが、彼女はは月琴の名手として有名でした。龍馬の妻・お龍はキクから月琴を習うために慶応2年6月から慶応3年2月まで小曾根邸に滞在しています。

ということはもしかしたら、長崎税務署前の道を「龍馬とお龍が手をつないで歩いた」なんてこともあったかもしれませんね。

小曾根邸跡


左端に写っている建物は「小曾根郵便局」。この辺り一帯は、現在でも「小曾根町」と呼ばれています。 小曾根邸の跡地の大部分は駐車場として使われており、「小曾根公園」は写真右端に写っています。     

左端に写っている建物は「小曾根郵便局」。この辺り一帯は、現在でも「小曾根町」と呼ばれています。

 

小曾根邸の跡地の大部分は駐車場として使われており、「小曾根公園」は写真右端に写っています。   

小曾根公園その2

前回レポートした小曾根邸跡ですが、現地周辺を歩いてみると「あっ!!」と驚いてしまうことが!!

前回の写真を再度掲載してみました。

写真奥に写っている建物から解るように、小曾根邸の裏手は崖になっています。

実は、この崖より手前が乾堂の父・小曾根六左衛門が埋立工事を行った「小曾根築地」なのです。

さて、小曾根邸跡である児童公園に行ってみますと、滑り台の奥に崖沿に上る石段が見えます。石段の下の方は藪に隠れていて見えませんが、位置から判断すると「小曾根邸裏手」に繋がっていたものと思われます。

いったい何のための石段だったのでしょうか?

現在この石段は老朽化がひどく危険なため通行禁止になっていますが、すぐ近くに同じような石段があり、そちらは現在も通行可能です。

そこで、その石段を上って崖の上に出ると、そこには「居留地境」と記された石柱が立っています。

ということは、小曾根邸裏の石段は外国人居留地に通じていたということになります。

そう、この辺りはグラバーやリンガー、オルトといった外国人が住んでいた「南山手外国人居留地」なのです。

そのまま旧居留地内の道を歩いていきますと、長崎地方気象台を過ぎたあたりに、さらに上へ続く石段が現れますので、それを上りますと・・・・

なんと「グラバー園出口」に出るのです!

ここで注意すべきことは、出口というのはあくまでも「グラバー園」の出口であって、「グラバー邸」としては表玄関であるということです。

( 幕末に活躍した外国人商人であるグラバー、リンガー、オルトの3人の屋敷跡を中心に整備されたのが「グラバー園」で、「グラバー邸」は園の出口付近にあります )

グラバー園出口

画面中央に写っているのはグラバー園出口付近にある「展望台」です。

ここで注目すべきことは、小曾根邸から僅か10分程でグラバー邸に到ることができるということです。

海援隊本部であった万才町の小曾根(英四朗)邸からグラバー邸までは直線距離で約3㎞、実際に歩くとなると1時間近くかかるのではないでしょうか?

小高い山の上のある亀山社中からだとさらに15分程余計に時間がかかります。

ところが小曾根(乾堂)邸からグラバー邸までは10分程しかかかりません。

龍馬にとって小曾根(乾堂)邸は、グラバー達と商談を進めるうえで極めて都合がよい場所だといえるでしょう。

おそらく海援隊「小曾根築地」出張所として利用していたものと思われます。

「乾堂さん、グラバーさんと取引の話があるけん、何日か泊めておうせ」

と龍馬が訪ねてきたこともあったのではないでしょうか?

( なお、小曾根乾堂は小曾根六左衛門の長男、英四朗は四男です )

グラバー園は左上の入口から入場し、エスカレーターと動く歩道を乗り継いで園内の奥まで移動します。

動く歩道はグラバー邸の裏を通過していきますので、入場者はこの時点ではグラバー邸には入れません。                        

グラバー邸に入るには、園の奥の方からリンガー邸やオルト邸を見ながら園出口まで移動しなければならないのです。       

グラバー邸を見た後は、出口から退場してグラバー園観光は終了です。              前掲の写真の右端にわずかに映っているのが地図の左端に写っている「出口管理棟」です。

小曾根乾堂邸跡からの道が「グラバー園の出口=グラバー邸の表玄関」の所に出るということが、理解していただけたでしょうか?

ちなみに伊藤俊輔(後の伊藤博文)ら長州藩士達がグラバー邸を訪ねる際は「いつも裏口から来ていた」そうです。つまりグラバー園を訪れる観光客と似たコースでやって来ていたわけです。

《グラバー園》

長崎電気軌道(=チンチン電車)「長崎駅前」より5号系統「石橋行」乗車、「新地中華街」乗換え。

長崎電気軌道(=チンチン電車)「新地中華街」より1号系統「崇福寺行き」乗車、「大浦天主堂」下車。

徒歩約7分。

※ 「大浦天主堂」で下車せずに終点の「石橋」まで行って、そこから徒歩約2分の場所にある「グラバースカイロード」(=斜行エレベーター)を利用してグラバー園最奥部まで一気に進むという方法もあります。

グラバー園

 

皆さんはグラバー園についてどれぐらい御存知でしょうか?

残念なことに、グラバー園とグラバー邸の区別がつかない方がかなり存在します。

そして、そういう人に限って龍馬に関する「とんでもないデマ」を平気で飛ばします。

「龍馬はグラバーを通じて武器弾薬を入手し薩摩へ供給したが、グラバーの正体はフリーメイソンである。龍馬は武力討伐から大政奉還へ舵を切りなおしたが、それがフリーメイソンへの裏切り行為とされ、粛清された。これが龍馬暗殺の真相である」

という話を聞いたことはありませんか?ハッキリ言ってデマです。

「デマではない!グラバー邸にはフリーメイソンのマークが刻まれた門柱がある。グラバーがフリーメイソンだった証拠だ!」

と主張する人がいますが、グラバー邸にそんな門柱はありません。

ただし「グラバー園内にはフリーメイソンのマークが刻まれた門柱があります」。

だから私は最初に申し上げたのです「グラバー園とグラバー邸の区別がつかない」方が存在すると・・・・

 

グラバー園は、南山手外国人居留地のうちグラバー邸、リンガー邸、オルト邸の敷地を基に設立された野外博物館です。広大な敷地内には、長崎市内に残っていた歴史建造物が数多く移築・展示されています。

下に掲げたのはグラバー園のマップですが、「グラバー邸=⑨」「フリーメイソン門柱=D」「リンガー邸=➄」です(ちなみに「オルト邸=➅)です)。

 

どうです?フリーメイソン門柱はグラバー邸にはないでしょう?むしろ「リンガー邸にある」と言えます。では、リンガーはフリーメイソンだったのかというと、それも違います。

先程も述べましたが、グラバー園は「長崎市内に残っていた歴史建造物を移築した野外博物館」です。つまりフリーメイソン門柱も移築された物の一つに過ぎないのです。

左に掲げているのはフリーメイソン門柱の横にある解説文ですが

「旧小曾根町南岸通り47番の住宅出入口の門」

と明記してあります。つまりリンガー邸とは全く無関係ですし、ましてやグラバー邸とも関係ありません。

よって「グラバーはフリーメイソンだった」というのは全くのデマです。

グラバー園がどういう場所なのか知っている者から見れば噴飯物のデマですね。

 

それはさておき、グラバー園の敷地はめちゃくちゃ広いです。「長崎市内に残っていた歴史建造物を移築」することができたぐらい広い敷地だったわけですし、前掲のマップを見てもお分かりのように「移築しても、まだゆとりがある」広さです。これが元はグラバー、リンガー、オルトの3人の敷地だったのですから、幕末長崎にやってきた外国人商人がいかに巨万の富を築いたか実感できるというものです。

なお移築された「旧長崎地方裁判所長官舎=➂」は現在「レトロ写真館」となっており、レトロな衣装に着替えて記念写真を撮ることができます。

また衣装の貸し出しも行っておりますので、着替えて園内を散策するのも良いでしょう。

 

グラバー園の営業時間は 8:00~18:00 ですが、5月の連休や夏休み期間、クリスマス等は夜間営業も行っています。

(夜間営業日、営業時間についてはグラバー園のホームページに掲載されていますので、必ずご確認ください)

 

異国情緒宇たっぷりなグラバー園の夜間公開は一見の価値ありです。園内から見る長崎市街の夜景は正に「百万ドルの夜景」です。(ただし夜景を見ていると土産物店街の営業時間が終わってしまいますので注意しましょう)

 

ここで夜景に関する情報を一つ教えましょう。

園を退場する際は、再度グラバー園の最上部「旧三菱ドックハウス」まで戻り、そこの横にある「第2ゲート」から退場し、「グラバースカイロード」経由で下へ降りてください。

華やかさはありませんが「地上の星」といった風情があります。

グラバー邸

 

龍馬ゆかりの長崎名所といえばグラバー邸ですが、書籍等にグラバー邸全景を掲載する際のアングルが二つあることをご存知でしょうか?

異人館のシャレた感じが強調されるアングルです。

もう一つのアングルは、手前の花壇が写っていなければ少し地味な感じがする異人館です。

では、龍馬関連本に掲載されているのはどちらが多いか?というと、

かつては、前掲の「温室が入ったアングル」が多かったのですが(名作漫画「お~い!竜馬」で描かれているグラバー邸も、このアングルです)、

昨今では後掲の「少し地味な感じ」のアングルが多くなっています。

建物は少し地味でも、手前の花壇も一緒に写すことで華やかになる

ということが最大の理由ですが、それとは別の理由もあります。それは、

グラバー邸は増改築を繰り返した建物である

ということです。実は温室が作られたのは明治20年代以降のことで、幕末には存在していないのです。

↑現在のグラバー邸を上から見ると、クローバーを思い浮かべるような形状をしていますが、それは明治になって増改築を繰り返した結果なのであって、幕末は全く別の形状をしていました。

右に掲げたのは明治20年代以降現代に至るグラバー邸の平面図ですが、クランク状に曲った廊下や歪な形状の部屋配置など「いかにも増改築した建物」感がします。

また、各部屋をつなぐ廊下が少ないことにお気づきでしょうか?これはグラバー邸における部屋間の移動は、外側の回廊を通ることが基本となっているからです。

ちなみに前掲の「異人館のシャレた感じ」のアングルの写真は、右図の左上の方から撮影したものです。

↑ 現在(明治20年代以降)のグラバー邸平面図

一方、幕末のグラバー邸は、下に掲げるように

グラバーの寝室と客間がL字型に繋がったシンプルな形状

をしていました。

「夫人室・使用人室・調理室」と「母屋」をつなぐ廊下はなく、それぞれ独立した別棟になっています。

前掲の現在の平面図と見比べてみれば、どこが増改築されたのかが判って面白いと思います。

このように温室周辺は幕末当時は存在していない構造物なので、温室側から撮った写真を龍馬関連本に掲載したりすると、

「判ってないなぁ・・・・」

と非難されることになってしまうのです。

ちなみに「少し地味な感じ」の写真は、上図の左下から撮ったアングルになりますので、幕末当時に存在していた構造物しか映っていません。これならば龍馬関連本に掲載しても違和感がないので非難されません。

さて、龍馬ファンにとってグラバー邸で気になることと云えば「隠し部屋」の場所ですが、それは

「夫人室・使用人室・調理室」の屋根裏

にあります。正確には「使用人室」の屋根裏ですね。

「隠し部屋」への入口は、夫人室と使用人室の間にある通路の天井にあるので、ハシゴを使って出入りするようになっていました。

左掲は展示パネルに掲載されていた「隠し部屋」と「隠し部屋入+A32:AB37室方法」の写真です。

梯子の左手前に写っているのが「夫人室」のドア、右が「使用人室」のドアです。

皆さんおなじみの「隠し部屋」写真ですが、撮影方向は「隠し部屋奥→入口」となっております。画面奥の白い壁が、入口の壁になります。

「隠し部屋」写真の右に写る壁の向うは「料理室」の吹き抜けになっていますから何もありません。

この「隠し部屋」がどれくらいの広さなのか、については「お~い!竜馬」を参考にするとよろしいでしょう。「いろは丸事件」の舞台が長崎に移った際にでてきますが、とても狭いです。

大浦海岸通り


←旧英国領事館

元治元年、勝海舟はイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四ヶ国連合艦隊による長州攻撃を阻止すべく長崎出張を命ぜれ、龍馬をはじめとする海軍塾生もこれに同行しました。

四ヶ国連合艦隊に対して交渉を行うのですから、海舟の訪問先は各国の領事や艦長等になります。

 

当時、英国領事館は大浦海岸通りにありましたので、龍馬も海舟に随行して訪れたものと思われます。

現在も路面電車「大浦海岸通」電停近くに赤煉瓦の「旧英国領事館」の建物が残っています。

 

なお、この建物は1908年(明治41年)に建て直されたものなので、海舟らが訪れたものとは異なる点が龍馬ファンには少し残念なところです。

大浦海岸通りは大浦バンドとも呼ばれ、南山手と東山手の外国人居留地から近いため、居留民が行きかうメインストリートになっていました。

 

そのため、このあたりには下掲の観光案内板に書かれているようにグラバー商会やオルト商会があり、そこに出入りする商人たちでとても賑わっていました。

ということは、茶貿易で富をなして亀山社中のパトロンとなった「大浦お慶」や、藩命でグラバーから武器を買い付けるために奔走する「薩摩藩の五代才助」、それからもちろん「龍馬と亀山社中の面々」がこの辺りを歩き回っていたことになります。

 

さて龍馬と云えばこのエリアで忘れてはならないのが、左の地図の「市民病院前電停」と「大浦海岸通電停」の間にある「運上所跡」です。

「運上所」とは、安政6年(1859年)に長崎、神奈川及び箱館(函館)の港に設けられた役所で、輸出入貨物の取り締まりや関税の徴収を行ないました。今日の税関の前身になります。

その運上所と龍馬が、どう絡むのかというと「イカルス号事件」です。慶応3年7月6日深夜、長崎の花街・丸山において英国軍艦イカルス号の水夫2名が何者かに斬殺されるという事件が発生しました。

 

事件の目撃者が「犯人は白筒袖を着ていた」と証言したことから「亀山の白袴」の通り名を持つ海援隊に嫌疑がかけられたのです。また、「事件直後に海援隊の『横笛』という帆船と土佐藩の『南海』という艦船が出港し、しばらくして『横笛』だけが戻ってきた」という噂話が市中に流れました。

この噂話を聞いた英国公使パークスは、「下手人は海援隊員に間違いない。長崎港外で『横笛』から『南海』へ下手人を移乗させて逃がしたに違いない」と長崎奉行所に対し抗議したばかりか、老中板倉勝静に対しても「土佐の者が犯人に違いないので、事件の徹底究明をしろ。土佐藩を調べさせろ!」と猛抗議します。

 

土佐須崎港でパークスと土佐藩の交渉が行われますが、後藤象二郎が「証拠があがれば責任を持って処罰する」と対応した結果、交渉の舞台が長崎に戻ることになりました。長崎奉行所・立山役所は「この事件の審議は運上所にて行う」ことを8月18日に決定します。

現在「運上所跡」には、この8月19日における裁判記録の一部が掲載された案内板が立っています。が、この案内板は左掲の写真でお判りかと思いますが破損しておりまして、かなり読みづらいものとなっております。

 

何とか解読してみますと、横笛船長・中島作太郎に海援隊長・才谷梅太郎が「何時に出港したか」「どこまで航海したのか」「何時に戻ったのか」「英国人水夫殺害事件はいつ知ったか」と質問している様子が書かれていました。

なお、この案内板には記載されていないのですが、他の記録からこの裁判にアーネスト・サトウが英国側通訳として参加していることが判っています。

アーネスト・サトウは日本語が堪能なだけでなく、「御座候」文体で書かれた書簡も読み下すこともできたといわれており、日本文化を最も深く理解している外交官でした。

 

英国側は「犯人が白筒袖に袴姿であったこと」「当日現場付近に海援隊士・千屋寅之助、佐々木栄がいたこと」「事件当夜海援隊の帆船・横笛が出港していること」の3点を根拠して「海援隊士が下手人である」と詰め寄ります。

それに対し龍馬が「そんな不十分な根拠で海援隊士を犯人にするのか」と大声で笑い飛ばし、英国側を小馬鹿にする態度をとったところ、サトウから叱られたそうです。

 

サトウは日記に「私にしかりつけられてから、彼(龍馬)は悪魔のような恐ろしい顔つきをして黙り込んでしまった」と記しています。

9月10日、長崎奉行所は根拠不十分として、千屋ら海援隊士に無罪判決を下します。

イカルス号事件の真犯人についてですが、福岡藩士・金子才助の犯行でした。金子は事件直後に自刃しており、福岡藩も事件を闇に葬っていたことが明治維新後に判明しています。

出島

 

元治元年、勝海舟はイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四ヶ国連合艦隊による長州攻撃を阻止すべく長崎出張を命ぜれ、龍馬をはじめとする海軍塾生もこれに同行しました。

四ヶ国連合艦隊に対して交渉を行うのですから、海舟の訪問先は各国の領事や艦長等になります。

元治元年における勝海舟の日記を見ると

「四月朔日 鎮台より、蘭コンシュル小子へ面会いたし度、明日出島え来訪を乞ふ由文通あり。 来る四日、出立の積取極む。」

「同二日 和蘭コンシュル方え行く。云、先日己来対談有之、軍艦差向け方、今二ケ月の内返答可有旨、其迄は、金川に滞在すべし、宜敷此事を周旋可給と云、猶種々の談あり。」

「同四日 長崎出立。」

という記述が見られます。

 

ここで注目すべきは

「四月朔日」にオランダのコンシュルジュから「面会したいので明日出島に来てもらいたい」という書面連絡があり、

「翌二日」に海舟はオランダのコンシュルジュ宅(つまりは出島)を訪れた

ということです。

ならば龍馬も海舟に同行して出島へ行ったのではないでしょうか?

名作漫画「お~い!竜馬」では、竜馬は苦心して出島に潜入していましたが(笑)、どうやら龍馬は海舟の従者として堂々と正面から出島へ入ったようです。

 

さて、「お~い!竜馬」で竜馬が出島に潜入したのは米国人エリックと再会するためでしたが、ここで「なぜ米国人のエリックが、実質的にオランダ領である出島にいるのか?」と疑問に思われた方もいるのではないでしょうか?

そこで、出島について調べたところ、 日本初の本格的な人工島で、ポルトガル商人を管理する目的で建設されたものであることが判りました。

オランダのために建設されたのではないのです。

ポルトガルが日本に来た目的は「貿易と布教」でしたが、我が国は豊臣秀吉以降キリシタン禁教の立場をとっていましたので、ポルトガル人が布教できないよう出島に封じ込めたのでした。

 

1637年に島原の乱が勃発すると、幕府はポルトガル人を日本から追放します。代わりに、「布教しない」ことを幕府に対して確約したオランダが貿易相手となり、1641年以降1859年までの約200年間、オランダが出島の主となります

ちなみに、かつては七つの海を支配したオランダですが、スペインやイギリスとの戦いに敗れ次第に海上覇権を失っていきます。そしてオランダ本国も1811年にナポレオン率いるフランスに支配されてしまいます。

その後ナポレオン帝国の崩壊に伴い、新たにネーデルラント王国が発足するのですが、1811年から1816年の間は「世界で唯一オランダ国旗を掲げている場所」が「出島」であったといわれています。

さて、ペリー来航により我が国は開国し、下田と箱館も諸外国に開港されることになったのですが、これにより出島は「唯一の貿易場所」という立場を失うことになります。


そして、 1856年に出島解放令が発せられ、出島内の居住に限られていたオランダ人は長崎市街へ出ることが可能となった。

それと同時に出島は、南山手や東山手と同様に外国人居留地になった。

という変化が出島に訪れます。つまり、幕末の出島は「オランダ人が住む場所」ではなく「外国人居留地」ですので、米国人エリックがいても不思議ではない、ということになるのです。

 

「お~い!竜馬」の原作者は言わずと知れた武田鉄矢さんですが、武田さんは執筆にあたり「史実と史実の隙間を狙って書いた」そうで、当然出島の歴史を調べたうえでの米国人エリック登場となったのでしょう。「竜馬・出島編」に続く「竜馬・上海編」も龍馬ファンなら知る「空白の3ケ月」を埋めるエピソードとして考えられていますし、武田さんはよく勉強しているなぁと感心しました。

 

さて、その出島ですが、明治以降周囲の埋め立て工事が進み、海に浮かぶ扇型の姿は失われてしまい、長らく地名だけの土地となっていました。

そこで、長崎市は平成8年に「出島復元プロジェクト」をスタートさせ、19世紀初頭の建物復元や護岸石垣の発掘を行っています。


↓(左)発掘された南側護岸石垣

↓(中)北側護岸と復元建物群

↓(右)出島内の復元建物群

観光丸

 

長崎の旅客船は大波止(おおはと)ターミナルから発着します。その発着する船の中に一艘だけ異質の船があります。黒い船体に3本マストの外輪船「観光丸」です。

「ふ~ん、長崎港を観光するための船だから観光丸って云うのか・・・・」と思ったあなた、それ間違っています。

観光丸の「観光」とは、中国の古典「易経」より引用したもので「国の光を観る」という意味です。

観光丸は1852年にオランダのアムステルダムにある国立造船所で建造され、1855年(安政2年)にオランダ国王より幕府に献上されました。オランダでの名称はSoembingでしたが、先に述べたように日本到着後「観光丸」に改称されています。

 

↑ (左)観光丸

観光丸は幕府が初めて所有した洋式軍艦で、長崎海軍伝習所の練習艦として使用されました。下掲の「長崎海軍伝習所絵図」を一度は目にしたことがある方もいるかと思いますが、この絵図の右上に描かれている黒船が観光丸です。

 

↑ (右)左図の拡大図

出島の沖に観光丸が浮かんでいます

↑ (中)「長崎海軍伝習所絵図」(鍋島報效会所蔵)

長崎海軍伝習所では海軍戦略や操艦術だけでなく数学・物理・化学等の学問や製鉄所建設・造船所実習等の講義も行われ、日本の近代化に大きく貢献しました。

安政2~4年(1855~1857年)に行われた第一次伝習に参加した人物の中には、

幕臣・勝麟太郎(海舟)、榎本釜次郎(武揚)

佐賀藩・佐野栄寿左衛門(常民)

薩摩藩・五代才助(友厚)

の名が見られます。

長崎海軍伝習所における第一次伝習の締めくくりとして、観光丸は江戸まで航海します。江戸では、新たに開設された「軍艦教授所」の練習艦として使用されました。

安政6年(1859年)、観光丸は遣米施設随行船の候補となりますが、アメリカ側から反対され、随行船には「咸臨丸」が選ばれることとなりました。もしもアメリカ側の反対がなければ、日本初の太平洋横断を成し遂げたのは観光丸だったのです。

そして元治元年(1864年)、観光丸は「神戸海軍操練所」の練習艦になります。

つまり観光丸は、勝海舟と坂本龍馬の師弟に「海軍とは何か、蒸気船とは何か」を教えた偉大な船ということになります。

さて、その偉大な船を復元したのが大波止ターミナルの観光丸です。通常、観光に用いられる復元船と云えば「名前は同じでも似ても似つかない船体」だったりするのですが、この「復元船・観光丸」は違います。

なんと、オランダのアムステルダム国立海事博物館に保存されていた図面を基に、オランダの造船所で建造され、実際にオランダから長崎まで航走してきたというシロモノです。

外洋航海が可能なレベルで復元された関係上、マスト等は金属製になり、レーダーやスクリュー等も装備されていますが、それ以外は「甲板の板材」から「室内装飾の材質」に至るまで、可能な限り忠実に復元されています。

この「復元船・観光丸」を発注したのは、ハウステンボスの前身である「長崎オランダ村」です(「長崎オランダ村」の規模を拡大し、移転開業したのが「ハウステンボス」です)。

ハウステンボスの債務整理の一環として、長崎市の「やまさ開運」に譲渡され、現在に至るという複雑な過去を持つ復元船ですが、現在の大波止ターミナルの位置は「長崎海軍伝習所絵図」で描かれている観光丸の位置に近い場所に該当しますので、「落ち着くところに落ち着いたな」という気がします。

ちなみに幕末をテーマにしたドラマや特番で「黒船」として撮影されているのは、この「復元船・観光丸」とみて間違いないでしょう。

それから名作漫画「お~い!竜馬」における観光丸のカットは全て、「復元船・観光丸」を取材したものです。

長崎にお越しの際は、是非、「新・観光丸クルーズ」をお楽しみください。

小島養生所

 

↑に掲げたのは鍋島報效会所蔵の「長崎海軍伝習所絵図」ですが、一度は目にしたことがある方もいるのではないでしょうか?この絵図をよく見ると幕末の長崎港の様子が詳しく描かれていることが判ります。

この絵図の左上の部分を拡大してみましたのが上記右図です。

 

これをさらに拡大してみますといろんなものが見えてきます。

↑(左)唐人屋敷  ↑(中)新地  ↑(右)唐船。

 

「長崎海軍伝習所絵図」の左上部分は中華エリアだったのです。

「唐人屋敷」は、我が国が開国する以前に中国人専用居留地だった場所です。

鎖国と云えばオランダ以外とは国交がなかったというイメージがありますが、中国や朝鮮とも貿易はありました(貿易がなければ「漢方薬」は作れませんよね)。

「新地」は、唐人屋敷前面の海を四角形に埋め立てて作った人工島です。

出島同様、現在は周辺の海が埋め立てられてしまったので人工島の面影は全く残っていません。しかし新地エリアは日本三大中華街のひとつ「長崎新地中華街」として今日賑わっています。

「唐人屋敷・新地」エリアは、長崎の冬の風物詩「ランタンフェスティバル」のメイン会場になります。期間中このエリアはランタンの幻想的な光に包まれます。

 

実はここまでは前座噺で本題はこれから・・・・

唐人屋敷の部分を拡大したのが右図ですが、唐人屋敷を見おろす高台に何か建物があります。これが今回の本題「小島療養所」です。

元治元年、勝海舟はイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四ヶ国連合艦隊による長州攻撃を阻止すべく長崎出張を命ぜれ、龍馬をはじめとする海軍塾生もこれに同行しました。

 

海舟は四ヶ国連合艦隊と交渉を行う傍ら長崎の随所を視察しましたが、「小島療養所」も視察した場所の一つです。

「小島療養所」がどのような施設であったか、設立の経緯から簡記しますと次のようになります。

 

1857年、長崎海軍伝習所の第二次伝習教官としてオランダからポンペが来日します。海軍伝習所では海軍の運営だけでなく医学・数学・化学等の伝習も行っていました。ポンペが担当したのは医学で、海軍伝習所から分離独立して医学伝習所を設立しました。

 

その後1861年。幕府の承諾を得て、唐人屋敷の上方にある風通しがよく湿気の少ない高台である小島に我が国初の西洋式病院「小島養生所」を開設します。

日当たり・通風・低湿気は、今日では病気療養の基礎条件として認識されていますが、当時はまだ「病気は薬を飲んで寝ていれば治る」という風潮でしたので、いかに「小島養生所」が最先端医療を実現したものであったか判ると思います。

病室についても、幕府は「畳に布団で十分だろう」という認識でしたが、ポンペはベッドの導入を主張し実現しています。

 

←ポンペ著「日本における5年間」に描かれている小島療養所 

                                                    

また療養所には医学伝習施設として「医学所」と「分析究理所」も併設されましたので、今日の医科大学・附属病院に相当する施設といえます。まさに日本における近代医学の先駆けとなる施設でした。

海舟が小島療養所を視察する際に龍馬を伴ったという記録は残っていません。

しかし、「四ヶ国連合艦隊との交渉」という重大任務中にもかかわらず視察を行ったということは、「龍馬にも見せたかったから」と考えるべきではないでしょうか。

聡明な海舟は長崎出張を命ぜられた瞬間に「四ヶ国連合艦隊との交渉」は失敗に終わることを予見できたことでしょう。遠路長崎まで無駄な出張をするぐらいならば、龍馬たち愛弟子に長崎で世界に触れてもらいたい、というのが海舟の偽らざる真情ではなかったでしょうか。

海舟に連れられて長崎の随所を見て回った龍馬は「いつかはここを拠点に何かやりたい!」との思いを募らせたことでしょう。

そしてその想いは、翌年「亀山社中」という形で具現化したのでした。

飽の浦製鉄所

 

元治元年(1864年)、勝海舟はイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四ヶ国連合艦隊による長州攻撃を阻止すべく長崎出張を命ぜれ、龍馬をはじめとする海軍塾生もこれに同行しました。

海舟は四ヶ国連合艦隊と交渉を行う傍ら長崎の随所を視察しましたが、飽の浦(あくのうら)にある「長崎製鉄所」も視察した場所の一つです。

 

下に掲げたのは鍋島報效会所蔵の「長崎海軍伝習所絵図」ですが、一度は目にしたことがあるのではないでしょうか?この絵図をよく見ると「長崎製鉄所」が描かれていることが判ります。

右上の部分を拡大すると「煙を出す煙突が2本描かれている」ことが判ります。

 

これが飽の浦の「長崎製鉄所」です。

長崎海軍伝習所総監・永井尚志は大型船建造所建設の必要性があることを幕府に説き、オランダの協力を得て製鉄所を建設しました。設立当時の名称は「長崎鎔鉄所」といいます。

↑(左)三菱重工業長崎造船所 飽の浦工場内にある記念碑

↑(右)長崎製鉄所古写真

 

鍛冶場・鋳物場も備えた長崎製鉄所には兵器生産の機能を期待されたのですが、残念なことにそこまでの機能はなく、実際には艦船の修理が主体の造船所として利用されることとなりました。なお、十分な機能を備えることができなかった原因はオランダ側にあるのではなく、十分な予算を準備しなかった幕府側にあるようです。

 

幕府はフランスの指導で横須賀にも同様に施設を作ろうとしていましたから、長崎へ回す予算がなかったのでしょう。

 

飽の浦工場内にある記念碑

まさかとは思いますが、横須賀製鉄所の建設を進めていたのは勝海舟と何かと比較される小栗忠順ですので、

もしかすると「そういう事情」もあるのかもしれませんね・・・・

ちなみに横須賀製鉄所ですが、後に長州藩との戦闘で被弾した四ヶ国連合艦隊を修繕することになります。

龍馬が「日本を今一度せんたくいたし申候」で有名な手紙にて

「あきれはてたる事ハ、其長州でたゝかいたる船を江戸でしふく(修復)いたし」

と書いているのが、それです。

 

話を長崎製鉄所に戻しましょう。勝海舟は日記に

「三月七日 飽の浦製造局一見。蘭人両人に面会。此地、萬事馳寛成るを観ず。

小子をして惣督全備成さしめむことを求む。此処の器械所は、

往時我が建議し製造せし處にて、洋人是を知る、今にして全備せず、如何又不少。」

と記しています。

さしずめ オランダ人技師から「工事の進捗状況が遅いし、必要な機械も準備されていない。

ここの建設は勝さんが提案したことでしたよね?だったら責任を取ってくださいよ」

と言われてしまった・・・・どうしたものか・・・・

といったところでしょうか。

海舟は龍馬らに最先端設備を整えた造船所を見せてやるつもりだったのに、意に反して未完成の(しかも中途半端な施設の)造船所を見せることになったのですから面目丸つぶれです。

ちなみに、この「飽の浦製鉄所」ですが、明治維新後に「長崎造船所」に改称され、さらには岩崎弥太郎に払い下げられ、今日の三菱重工業長崎造船所の礎となりました。

今や長崎造船所は「グラバー邸から見る対岸は全て三菱造船所」といわれるほどの大規模なものになりましたが、スタートは中途半端な規模だったのです。

飽の浦は現在も長崎造船所の中核であり、正門も本部ビルもこの地区にあります。

そして「明治日本の産業革命遺産群」として世界遺産に登録されたものの一つ

 

↑(左)三菱重工長崎造船所・正門

この写真を拡大したのが下の写真 「ジャイアント・カンチレバー・クレーン」

があるのも、ここ飽の浦です。

 

「暗殺されなかったならば三菱の創始者は龍馬だったかもしれない」というのはよく聞く話ですが、長崎造船所の前身が海舟と因縁浅からぬ「飽の浦製鉄所」であることを考えれば「まさにその通りだよなぁ」と頷いてしまう私でした。

筑後通り

 

今回紹介するのは、龍馬ファンを対象とした長崎観光ガイドは数あれど「何故か、どの本にも載っていない」という穴場中の穴場「筑後通り」です。

JR長崎駅を起点に、その穴場への行き方を説明しましょう。

駅の対岸に「文明堂」が見えますので、まずそこを目指します。

 

←これが目指す「文明堂ビル」です。

↑(左)長崎駅から歩道橋を乗り継いで「文明堂ビル」に着いたならば、「文明堂ビル」とコンビニの間にある路地「長崎駅前商店街」を奥まで進みます。

 

↑(中)(右)「長崎駅前商店街」の終点は階段になっています。このように道路が突然階段に変わったりするのは、長崎ではよくあることです。

階段を上ると、横断歩道の向うに路地が見えますが、これが「筑後通り」です。

「筑後通り」は少しきつめの坂道で、坂を上りきったところで右に曲がっています。

そして、右に曲がってすぐの所にあるのがこの「聖無動寺」でその隣が「本蓮寺」、さらに「福済寺」と続きます。この「福済寺」は「長崎大観音」で有名な寺なのですが、実はここ龍馬ファンにとって聖地です。


←福済寺・長崎大観音 

 

元治元年、勝海舟に連れられて龍馬は初めて長崎を訪れたのですが、この時に一行が滞在したのが、ここ「福済寺」だったのです。

ちなみに「福済寺」の手前にあった「本蓮寺」は、勝海舟が長崎海軍伝習所時代に宿舎として使用していた寺で、「聖無動寺」は勝海舟の現地妻だった「梶クマ」の墓があるところです。

「福済寺」について語るところは多いのですが、紙数の都合で割愛して先へ進みます。

「筑後通り」をさらに10分ほど歩きますと「聖福寺」に着きますが、ここも龍馬ファンの聖地です。

 

この「聖福寺」は、あの「いろは丸事件」の舞台となった場所なのです。

長崎での談判において紀州藩は、この寺を宿舎としました。龍馬が万国公法を片手に談判を行ったのも、この場所です。

この聖福寺が老朽化による倒壊の危機にあったことをご存知でしょうか?檀家や有志の寄付だけでは修復費の捻出ができず、荒れるに任せる状況が長年続いていたのです。

 

↑(左)聖福寺・鬼塀


ところが、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」の放送により転機が訪れます。「龍馬ゆかりの聖福寺が、このまま朽ち果てていいのか?」という市民の声が保存運動に繋がったのです。

 

そして2014年、事態が大きく動きます。聖福寺の大雄宝殿・天王殿・鐘楼・山門が国の重要文化財に指定されたのです。これにより保存・修繕費について国から大幅な補助が受けられるようになりました。

「聖福寺」についても語るところは多いのですが、紙数の都合がありますので割愛して先へ進みます。

「聖福寺」からに10分ほど歩きますと「筑後通り」終点、「長崎歴史文化博物館」に着きます。

実はこの博物館は、長崎奉行所立山役所跡に建てられています。

長崎奉行所には江戸町役所(現長崎県庁所在地)と立山役所の二か所の役所があり、出島や唐人町に近かった江戸町役所が外国人居留地関係の事務を取り扱い、それ以外の一般的な市中の事務を立山役所が扱ったらしいです。

 

(右)長崎奉行所・立山役所(長崎歴史文化博物館)

 

「らしいです」としたのは、明確な資料を私が見つけることができなかったからでして・・・・

英国人水夫が殺害されたイカルス号事件では、長崎一の暴れん坊集団である亀山社中に容疑がかかってしまった為、龍馬も奉行所へ出頭することになりました。なお、その際に龍馬が出頭したのは江戸町役所ではなく、この立山役所だといわれています。もし、それが事実ならば「異人が絡んでいる事件は江戸町役所の管轄」という区分けは成立しなくなってしまいます。

どなたか詳しい方がおられましたら、ご教授いただけると幸いです。

 

以上、駆け足で申し訳なかったのですが、「筑後通り」を紹介させていただきました。

長崎へお越しの際は、「龍馬ファンの聖地」がズラリと並んでいる「筑後通り」に是非足を運んでください。

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